平等という名の不平等
今回は「平等という名の不平等」です。
そもそも平等とはなんでしょう?
私の認識は、誰もが同じ状態。誰もが誰ものコピー。個性のない状態。
だから、誰もが同じ状態、だとしたら、人の区別がなくなるんだろうなあ、と感じています。
だって、顔も姿も性別も同じでなければ全てを同じだといえないから。
全て一緒にするなら、名前も一緒でなければおかしな話。
「何何さーん!」と呼んだら、地球上の全ての人が返事をするし、自分も返事する必要がありますね。
あなたも私、私も私ですから
気持ち悪い世界の誕生です!
チェスで言ったら、全員「ポーン」です。
私は嫌だな、そんな世界。私がいなくなっちゃう。
何故こんな話をするのかと言えば、平等でなければならないという考え方が、私達を縛り、なおかつ、不平等さをかえって生み出しているなあと、子供の頃から感じていたので、この辺で、整理してみようと思い立ったからです。
(気づいている人も多いでしょう)
そもそも、創造主が思い描く世界から大きく隔たってしまうのが、平等という考え方です。
一見、素晴らしい発想のように感じてしまいますが、綺麗事で、嘘八百です。
だって、本当は誰もが「自分は人とは違う」と知っているし、実際に「個性」がぶつかり合って社会が成り立っています。
それなのに、わざわざみんなが同じであるかの如く、平等を謳うのですから。嘘の世界が出来上がります。
人は平等である。これは嘘です。間違いです。
創造主は誰1人として同じ魂を作りませんでした。
だから、人間=「個性」なので、平等(同じやコピー)とは相入れません。
一人一人が特別な自分であるなら、平等は存在しないのです。
そして、それが本来の人間の姿です。
平等でない、全く違う人間同士が「対立すること」で、摩擦を生み出し、そこから新たなアイディア、発想が生まれ、その時、文化(ここでは事柄)が生まれます。
ぶつかる相手が変われば、生まれる事柄も違います。
だとすれば、注目される事柄も人も、その時、その時によって変わるはず。
その時に自然に出来上がった事柄や、注目される人物に自然にお金も人も集まります。
これが人間の進化であり、文化であり、人間の個性。
逆に、誰かが意図的に集めようとして集まったものは、無理に平等を作り出すのと一緒で、無個性で、退屈で、人が後退し、現状維持(続けると維持は違います)状態。
つまり、偽物の平等が具現化されるのです。
そして、偽物の平等は、本物の不平等を作ります。後は人間社会の崩壊が待っているのです。
誰かが作った平等は、紛い物の平等を維持するために、その枠から出ることを許さないので、暴力を振るい出します。
誰かがつくたった平等という名の暴力。それは不平等を具現化して、社会を崩壊させます。
あなたのまわりを見回して下さい。平等という名のものが溢れていませんか?それは誰かに都合の良い平等。つまり不平等な状態。
気づいて下さい。疑問に思って下さい。個である私たちが、私達であるために。
では、本当の平等とはどんな状態でしょうか?
勝ったり負けたりもするし、失敗も成功もする、そして、いつでもやり直すことができる!
これが私たちに与えられた、平等な世界。
今私たちに、失敗や、負けることが許されていますか?
考えてみて下さい。