愛さないから愛されない〜隠された心〜
「私は男性と付き合ったことはあっても、男性から真に愛されたことがない・・・」
「私は、何だか、いつも損ばかりしている」
このような実感を心の中に抱いている女性は、少なくありません。
そして、そういう方は、「私は、いつも、付き合う男性に対して、否、出会った他者誰に対しても誠実かつ良心的かつ献身的に振る舞っているのに、私を取りまく他者は、誰一人として私が受けるにふさわしい愛を返してはくれない・・・」というような嘆きを潜在的にくすぶらせていたりするのです。
しかし、ここには、ちょっとした自己欺瞞が存在します。
どの部分が自己欺瞞のトリックになっているか、皆さんは、発見できるでしょうか?
もったいぶらずに正解を申し上げましょう。
「出会った他者誰に対しても誠実かつ良心的かつ献身的に振る舞っているのに」という件(くだり)です。
本人は、「誠実かつ良心的かつ献身的に振る舞っている」つもりでも、男性や他者からしてみれば、計算ずくそろばんずくの行為にしか見えていないというギャップが存在していたりするのです。
つまり、「メリットがあって近寄ってきた女が、歓心を買うために、あれこれと媚びてきている」というふうに、相手から警戒心を持たれているわけですね。
本人は、どういう計算や採算があって相手に近づいているのか、言わなければ分からないと思っているのですが、実際には、相手方も、その辺りは織り込み済みで、自分に近づいてくる人間の「理由」くらい、分かりきっているのです。
計算ずく・そろばんずくで近づいてきた人間の好意は、好意ではありません。
ましてや、愛などでは、全然、ありません。
愛ではないものを愛だと思って相手に与え、挙げ句の果てに、愛を与えたのに愛が返ってこないと悲嘆に暮れているというのは、何とも痛ましいことです。
最初の時点、彼を選ぶ時点が重要なポイントです。
ここで彼を「愛する」ことができるかどうかが、その後、あなたが愛を返してもらえるかどうかの分岐点になってきます。
さて、「愛」って、いったい何でしょう。
「愛する」って、どういうことを言うのでしょう。
人間は、皆、基本的に、自分がいちばん大切です。
自分が幸せになるために、あれこれと努力します。
これは、人間の持っている自然性です。
しかし、「愛」は、「愛する」ということは、ここに奇跡を起こすものです。
人間は、皆、自分の利益や自分の命がいちばん大切であるはずなのに、「愛」の世界においては、愛する対象に優先順位の第一位が取って代わられるという驚異的な現象が起こるのです。
愛は、姑息な打算とは一切無縁の、人間が究極的な高みにいたった世界です。
そのように崇高な境地には、誰でも彼でも到達できるわけではありません。
恋愛ドラマや恋愛映画を見て感動したからといって、誰でも簡単に「愛」を実行できるかといえば、なかなかそうはいきません。
しかし、誰かを好きになっている当の本人は違います。
紛うことなき「愛」を実行していると思っているのです。
こうした自己への誤解が、そもそもの不幸の始まりです。
まずは、自分自身が行っている心の打算を、しっかりと注視しましょう。
そこから他者に対する真の愛が生まれる可能性があるからです。