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樹羅先生

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皆、人生の海原で自身のカヌーを漕いでいる

皆、人生の海原で自身のカヌーを漕いでいる

人は皆、人生の大海原で、自分だけのカヌーを漕いで生きています。



つまり、人には皆、人それぞれに、その人固有の目標や欲望や価値観や優先順位や、あるいはただの風の吹き回し的な気分というようなものがあって、そうした個人的な事情に従って生きているということです。



そうであるにも関わらず、人は、自分だけのカヌーを漕ぎながら、他者に対して、考えや振る舞いや感情の持ち方にまで期待することがよくあります。



あまつさえ、「どうしてあいつは私の考える当然の考え方や振る舞い方や感情の持ち方をしないのだ!」と怒りに震えたりすることも少なくなかったりするのです。



「○○は、△△であるべきだ」という「べき論」を語るのはご自由ですが、人が皆、基本的に、人生の大海原で自分自身のカヌーを漕いでいるという事実と事情は、忘れない方がいい。



また、あなたの考える「べき論」も、もしかしたら、あなた自身のカヌー漕ぎにおける都合から、そう考えているにすぎないのではないか?と、一応は、疑ってみるというのも悪くはない。そう思います。



よく「自分を信じろ」という方がいらっしゃいます。本屋さんに行けば、そのような主張を繰り返し繰り返し諄々と語り諭すタイプの本が、山のように出版されているのを見かけます。



なるほど、自分を信じることには、一定の意義があります。



ある程度、自分を信じることができるからこそ、それが某かの行動へと結びつき、そうして初めて某かの成果を期待することができるということは、たしかに、一面の真理でしょう。



しかし、自分を信じると同時に大切なことは、自分を疑うということです。



自分がある論理で、ある結論を導き出したとき、そのひとつの論理性だけに注目していてはいけません。論理とはお酒に似たところがあり、酔っ払ってしまうことも少なくないので、賢明でいたいのであれば、注意が必要です。





「自分は、数多く存在する論理の中から、なぜ、その論理を採用するにいたったのか?」、「自らのカヌー漕ぎにおける個人的な事情にとって、単に都合がいい論理だったからなのではないか?」と、一旦は疑ってみることが、より正しい認識に近づくためには、大切なことです。



「人は皆、人生の大海原で自分自身のカヌーを漕いでいる」と言った時の「カヌー」とは、いったい何なのでしょうか?



人それぞれが漕いでいる固有のカヌーの正体は、エゴです。あるいは個人的な諸々の事情です。



誰しも、こうした個人的なエゴや事情の中で生きています。



自分自身のエゴや事情は優先させるが、他者のエゴや事情に対しては無理解であるというのは、愚かしいのみならず横暴です。



愚かしく横暴なのは、一向に構わないとしても、そのような認識を持つ人間からは、多くの人々が背を向けることになるでしょう。



もちろん、多くの人々に背を向けられたからといって、それが必ずしも悪いというわけではありません。



孤立して、背筋をしゃんと伸ばして生きるのも、立派なひとつの生き方だからです。



ただ、孤立は望まず、人と関わりながら人生を送っていきたいと望むのであれば、愚かしく横暴な認識は改める必要があるでしょう。



自分に麗しからざるエゴや事情があるように、他者にも麗しからざるエゴや事情があることを理解し、それを尊重しなければならないということです。



他者のエゴを指弾すれば、それは、ブーメランのように自らのエゴへの指弾として跳ね返ってくるでしょう。



それでは、人は、お互いに幸せになることができません。



自らが漕ぐカヌーのいかがわしさを直視して受け入れ、他者が漕ぐカヌーのいかがわしさに対しても寛容さを発揮することができてはじめて、人は真に平和的な関係を築くことができます。



人は生まれたら最後、好むと好まざるとに関わらず、息を引き取るその時まで、人生の大海原で、自分自身のカヌーをひたすら漕ぎつづけなければなりません。



誰もがそうした寂しい旅の漂流者なのです。

この事実に対する理解から、他者に対する根源的な悲しみや思いやりの気持ちが、幾許かでも生まれてくるとすれば、この一文を最後までお読み頂いた甲斐があったということになるでしょう。



もし、悲劇の漂流の只中で、優しく癒やし合える人間関係を築くことができたら、暗く冷たい苦海のカヌー漕ぎで冷え切った心と体を、つかの間、暖めることができるかもしれません。



皆様が、どうかお幸せでありますように・・・。

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