自身の悪を、悪と自覚しつつ、大肯定する。
幼稚園生の善悪や、物事に対する分別の仕方は、いたって簡単です。「ルールに則したものが善」であり、「ルールに反したものが悪」であるというだけのものです。
もちろん、こうした幼稚園生の分別は、ほとんどの人間が、好むと好まざるとに関わらず、「社会」というものの中で生きていかざるを得ない以上、持っていた方がよい分別でしょう。
しかし、人生は、長い道のりです。こうした幼稚園生の分別だけでは、人生そのものが保(も)たなくなるという場合も、決して少なくありません。
誰しも、パブリック(公的)な一面と、プライベート(私的)な一面とを持っています。
会社で威張っている部長さんも、ひとたび家に帰れば、恐い奥さんの尻に敷かれ、やっつけられているかもしれません。
自分自身のパブリックな一面、つまり、社会的な一面を自分そのものだと思ってしまうと、時として、プライベートな次元における自分の首が絞まってきてしまうことがあります。
普段、格好のいいこと、誰がどう聞いても正しいこと、いかがわしさというものの一切ないことばかりを口にしていると、知らず知らずのうちに、社会に対してつけているパブリックな仮面が、自らの素面にぴったりと張り付いて、取れなくなってしまう(取れにくくなってしまう)ことがあるのです。
心の中では、プライベートな次元における自らの心が、悲しみや怒りや愛情や悦びといった激情でいっぱいになり、今にも爆発しそうになっているのに、自らの心の中に住む「常識人」や「警察官」とも言うべきパブリックな心が、そうしたプライベートな次元での自分自身を、よってたかって羽交い締めにするというようなことが起こってくることがあるのです。
心の中の常識人・警察官は、プライベートな次元の自分に対して、冷酷に、こう言い放ちます。
「パブリックな正論に従い、プライベートな激情は捨てよ」と。
しかし、それは、できない相談です。なぜならば、パブリックな正論を吐くのも自分なら、プライベートな激情を抱くのも、ともに自分自身だからです。
「コインの表側は認めるが、裏側は認めない!」などと言われても、それについてはどうしようもないというのと同じ話です。そこにコインが存在すれば、それには、必ず表側があり、裏側も存在するのです。
さて、問題は、プライベートな次元で抱く激情の内容が、パブリックな正論から見て「悪」の範疇に入るものであったときです。
悪は「イケナイ」ことだからと、自分自身のプライベートな一面を圧殺しようとすれば、あなたの心は涙を流し、苦しむことでしょう。
そうかと言って、パブリックな社会的関わりをばっさりと断ち切り、プライベートな激情にのみ身を任せる道を選べば、やはり、あなたの心は罪悪感に締め付けられるかもしれません。
右を選んだら不幸、左を選んでも不幸だというのなら、いったいどうすればよいのでしょうか?
私のおすすめは、「両方選ぶ」です。
社会的な関わりも、プライベートな激情も、両方選ぶのです。自分自身の悪を、「悪」であると、はっきり自覚しながら、意志力をもって選び取るのです。
自分自身の中に存在するいかがわしい一面を、自分には、こういういかがわしい一面が存在していると、心中で、明白に認めながら、大肯定するのです。
世の人々に、大声で言う必要は、まったくありません。心の中で、自らの悪を自覚し、受け入れることが大切なのです。
大人の分別は、複雑です。善が悪になり、悪が善になることもあります。真実が、より真実になるとき、それは善悪の彼方へと飛翔します。
―自らの悪を大肯定せよ。
これは非常に大切なことであると同時に、大変に誤解を生みやすい言葉でもあります。浅薄な理解の仕方をして、大威張りで悪いことをしてもらっては困ります。
あなたが、あなた自身の人生において、公私の絶妙なバランスポイントを見つけるために、この考え方を使って下さい。
善を善とし、悪を悪とする態度は立派ですが、そうした善悪を踏まえた上で、あえて、善をも悪をも両方選び取り、アンビバレンツの中で、ぎりぎりの平衡点を探る生き方もまた、深く充実していると言えるでしょう。
日々、反省しながらも、大肯定していく習慣を持つのは、あなたの運をよくするための有力なひとつの方法です。
勇気を持って、正直に生きてみませんか?
自らに備わる「知恵」や「ひらめき」や「工夫」というものは、そのために使うものです。
正直に生きるにあたっては、もちろん、リスクがあります。
リスキーで正直な人生の歩み方が、人生の正解だというわけではありません。リスクを負って歩くことは、誤りであるかもしれないのです。
さあ、どうしますか?正解は、ありません。
正解は、あなたの心だけが知っています。